ドイツ語にイデオロギー〈Ideologie〉という言葉がある。人文学や社会科学では馴染み深い言葉で,「観念形態」などと訳されることもあるが,定訳はなく主にカタカナ語として使われ続けている。イデオロギーとは何かというのは難しい問題で,調べてみても歯切れの良い回答はなかなか見つからない。枝葉末節の用例をやたら列挙するだけで,本質を捉え損ねている解説がよく目につく。外来語はその概念の消化不良を示していることが多いが,これも例に漏れずといったところだろう。
端的に言えば,イデオロギーとは「社会のあり方を規定しようとする思想」だ。それには必然的に体系性・政治性・闘争性が伴う。そしてしばしば理想論や空理空論に過ぎないこともある。誰がどう定義した,こう使われた,という例を列挙するのではなく,それらの用例が必然的に導かれる最小の説明であるという意味で,これが本質的な説明だと言える。
昨日,私はこのイデオロギーの訳語として「為道論」という言葉を思いついた。「道」は中国哲学において極めて重要かつ幅広く使われる語で,これを追究した道教においては宇宙の真の有り様を指し,これに沿って生きることが目指された。したがって,「為道」(道を為す)というのも漢語では古くからみられる表現だ。つまり,イデオロギーを「道の実践についての論」と解釈し為道論と表現できないかと考えているのだ。言うまでもないが,イデオロギー,イドウロンと音写も兼ねている。
イデオロギーを語源的に分析すると,ある種のイデア論であり,またある種の理想論であるとも言える。実際に「理想」と訳されたこともあるイデアとは理想上の世界のことであり,不完全で歪められた現実の我々が,「希哲学」を通して目指すべきところと考えられた。我々の五感では捉えられない(形而上的な)宇宙の真の姿と考えられ,何らかの実践によって正しく認識されることが目指されたという点において道とイデアは類似している。このように,漢字文化圏の伝統を踏まえて「イデオロギー」を再解釈しようとした訳語が「為道論」だ。
実はこれ以前にも,頑念,意路,天論……などと様々な訳語を考えていたのだが,どの案も確信には至らなかった。はじめに考案した「頑念」は,イデオロギーの語に伴う「頑迷な信念」という否定的な印象を強調したものだが,流石に解釈が恣意的かと考えて廃案とした。「意路」や「天論」も悪くは無かったが決め手に欠けていた。これらの語感を合成したような「道論」というのも思いついたが,何かが足りない。そこで試しに「為政」の「為」を頭に付けてみたらしっくりきたというわけだ。