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{文学賞について考える K#F85E/D64E-01D2}

先日,ボブ・ディラン氏が歌手として初めてノーベル文学賞を受賞することになった。発表からしばらくディラン氏が沈黙していたこともあり,この選考については議論が絶えなかった。スウェーデン・アカデミーノーベル賞そのものへの懐疑的・批判的な言説も少なからずあった。

ディラン氏の沈黙については,あまりに意外なことだったため単純に当惑していたと説明されている。スウェーデン・アカデミーも含めて,反権威的な態度をあえて取っていると解釈した者も多かったが,その後の氏の込め言を見ると極めて素朴に喜んでいるようだ。思想性を過大に評価されながら実は素朴に徹している氏らしいとも言える。私もちょっと拍子抜けしたクチだが,考えてみれば,これで受賞を辞退するのもありきたりだし,出来過ぎたパフォーマンスをされても白けるので,今ではむしろ好感を抱いている。

ノーベル賞の選考が適切だったかどうかに関しては,私は文学賞と名の付くもの一般に価値を見出していないので,「どうでもいい」というのが正直なところだ。

科学関係のノーベル賞は啓蒙効果も大きいのでそれなりに有意義なことだとは思うのだが,ノーベル文学賞の意義はよく分からない。文学とは人間の精神を言語で探究する主観的な活動であり,それを権威付けるという発想そのものが文学的ではない。実際,私は文学賞を取った作家や作品に特別な価値を見出したことがない。そんなものに囚われている時点で,その作家の精神性など高が知れているとすら思う。かといって,積極的に廃止しろとも思わない。やはり「どうでもいい」のだ。

だから,やたら賞を欲しがるのでもなく,「権威」を意識し過ぎて反発するのでもなく,取れたら取れたで適当にぶら下げておけばいい,というディラン氏の態度には共感しやすいのかもしれない。いつまで経っても「○○賞作家」のような肩書きにぶら下げられているのは情けないが,氏にとって今更そんな肩書きは無意味だろう。