アメリカでは自動車産業がもう駄目だという頃には情技(IT)産業の基礎が出来ていて,速やかに脱工業化を果した。だが,ここに経済格差の拡大・社会分断という落とし穴があった。日本ではいまだに自動車会社が産業を牽引していて情技(IT)産業は停滞し続けている。だがそれも考えようによっては利点だ。
いま世界では「マスコミ不信」が重い課題の一つになっているが,どうもこれは「マスコミの信頼性が低下している」という言葉通りに単純な話ではなさそうだ。マスコミ不信とされる現象を観察していると,大きな要素として「不快が生む不信」と「誤解が生む不信」があり,さらにその根底には共通して経済格差という問題があることに気付く。
「マスコミが信用出来ない」と語る人の言動をよく観察してみれば,実は問題が「情報の信頼性」ではない,ということにはすぐ気付くだろう。そういう人は,一方でマスコミの報道を批判しつつ,一方でネットの情報を驚くほど鵜呑みにする傾向がある。その情報源はマスコミ以上に怪しいことが多いが,それに対する批判精神は乏しい。
そういった人々の言動でひときわ面白いのは,「マスコミを使ってマスコミを批判する」ことだ。マスコミの信頼性に疑問を呈しつつ,その根拠としてマスコミが提示した情報を使っていることが珍しくない。ある報道機関を批判するために,その報道機関が出した情報を根拠にするという,笑い話のようなことが実際によく起きているのだ。それも,相手の自己矛盾を突くというような高度な話ではない。ネット情報の多くがマスコミ情報の引用であることに気付かず,本人はネットで得た知識でマスコミに対抗しているつもりになっているのだ。
こういった事例から分かることは,マスコミ不信を語る人の多くが,その言葉とは裏腹に情報の信頼性を重視していないということだ。ではなぜ彼らはマスコミ不信を訴え,ネットを過信するのか。それは,マスコミが発する情報が「不快」で,自分で好きな情報を集められるネットは「快適」だからだ。
マスコミは恐らく,昔からそれほど劣化していない。別の言い方をすれば,もともとマスコミに大した信頼性などない。変わったことがあるとすれば,マスコミが作り出す虚構を心地良く感じられない人が増えたことだ。
「人は信じたいものを信じる」という昔からある指摘が,最近では「ポスト・トゥルース」(ポスト真実)などという言葉で盛んに議論されているが,ここにおいても情報の信頼性やリテラシーの問題は表層的なものに過ぎない。着目すべきは,その奥底にある社会構造の問題だ。
不信感は,誤解から生まれることもある。報道内容を十分に理解しないまま受け取っていると,マスコミが実際以上に支離滅裂なことを言っているように感じられ,不信感が募っていく。暗闇に不安を覚えるように,理解出来ないものは信用出来ない。
昨年のアメリカ合衆国大統領選挙に関する日本での報道やネットでの反応を眺めていて一つ気付いたことがある。多くの日本人が,大統領選挙についての不徹底な報道によってその制度について誤解し,それがマスコミ不信につながっている,ということだ。
例えば,得票数についての誤解だ。一般投票前の世論調査で,多くの報道機関がクリントン氏の優勢を報じていた。このうち,大きく外れたのは「選挙人獲得数」で,支持率は予想ほどの差ではなかったものの確かにクリントン氏の得票率に近いものであり,結果的に300万票近くクリントン氏がトランプ氏を上回った。
大統領選はあくまでも間接選挙であり,一般有権者からより多く得票した者が必ず勝つという制度ではない。しかし,米国の制度にうとい日本人には「トランプ支持者が多数派だった」とか「トランプ氏は国民投票で選ばれた」という誤解をしている者が少なくなかった。そして,その誤解を積極的に解こうとする姿勢がマスコミ側にも乏しかった。
こうした誤解は,その後の世論調査の信用に響いていた。多くの報道機関や調査会社がトランプ氏の支持率が得票率相応に低いことを報じたが,「マスコミは支持率調査を大きく外した」という誤解に基いてこの報道を受けた人々は,「またマスコミがトランプ氏に不利な情報を捏造している」と解釈した。
マスコミの報道を不快に感じ,誤解してしまう人が増えているのだとしたら,その原因はやはり経済格差にある。経済格差は,作り手と受け手の感覚や意識を引き離し,両者の共感を殺してしまう。
マスコミというのは,一握りの少数者が圧倒的な多数者に語りかける媒体だ。作り手になるには,報道機関に就職するにせよ番組に出演するにせよ,何らかの競争に勝たなければならない。より高等な教育を受けていれば競争に勝ちやすくなるわけで,必然的に業界はエリート社会だ。そこにいる人々が,いわゆる「普通の人」を想像出来なくなっている。
人にものを教えるのが上手い人は,教えられる側に共感出来る人だ。どこで理解につまづいてしまうのか,ということが分からないと人にものは教えられない。
しかし,マスコミの作り手には,生まれた頃から経済的にも文化的にも豊かな家庭があり,「良い学校」に通い,知的な友人や同僚に囲まれて生活してきた人が多い。彼らは,貧しい人間やものを知らない人間のことをよく知らず,自分達の常識を基準として情報を発信してしまう。そこに反感が生まれ,誤解が生まれ,不信が生まれる。それはやがて無知につけこんだ大衆主義の温床となり,社会全体を混乱に陥れる。
こんな世相は絶望的なようだが,もちろん希望もある。取り組むべき問題は経済格差に絞り込める。そして経済格差は解決出来る問題だ。
貧富の差(経済格差)という問題が,世界に火種をばらまいている。昨今の不穏な世界情勢は,後に第三次世界大戦前夜として語られても全くおかしくない様相を呈している。
私はいまトランプ政権についての暫定的な見解をまとめているところだが,文章を書き進めるにつれ,自分の中で問題意識が膨らんでくる。ソビエト連邦崩壊が共産主義挫折の象徴であったように,トランプ政権の誕生によるアメリカ合衆国の混乱は,後世に資本主義挫折の象徴,「アメリカ崩壊」として語られるのかもしれない。15年以上前から世界の思想的・経済的分断に対する新しい解答を準備してきた私にとって,避けることの出来ない勝負の時が迫って来ているように感じられる。
人類の経済活動は,「資本主義」などという言葉が生まれるずっと前から格差を生み出すものだった。貧困が社会の中心的課題として捉えられるようになったのは,せいぜいここ数百年のことだ。多くの人がこの問題を語り,時には血を流してきたが,どうすれば深刻な貧富の差を解消出来るのか,という問いに答えるのは実は拍子抜けするほど簡単だ。
貧富の差を是正するただ一つの道は,「稼いで雇う」ことだ。つまり,世界最大の圧倒的な収益源を持つ企業を創り,そこで万人に平等な雇用制度を整えれば良い。制度上は資本主義のままで,社会保障に伴う諸問題も回避出来る。難しいのは,「どの道を選ぶか」ということではなく「この茨の道をどう進むか」ということなのだ。
こう言えば,そんなことは出来るわけがない,と多くの人が思うだろう。しかし,よく考えてみてほしい。これまでどれだけ多くの人が貧困の問題に気の遠くなるような時間を費やし,身を危険に晒し,そしていまだに絶望から抜け出せずにいるか,ということを。それと比べて,本当にやってみる価値のない冒険だろうか。やってみれば意外と簡単なことかもしれない。
私はその冒険のために希哲館事業を立ち上げた。この事業はまだ10年目だが,私は思いのほか楽観的だ。