「小さな主語」の傲慢さと謙虚な「大きな主語」のすすめ

描主宇田川浩行K#F85E
上描き希哲13年(2019年)
06月20日 22:50
下描き希哲13年(2019年)
06月20日 22:45
利承
ライセンス
希哲館普通利承(KULクール

いつからだろうか,「大きな主語」に怯える人をよく見かけるようになった。何か意見を述べる時には,常に,「は」のような「小さな主語」から語るべきだ,という強迫観念を持っている人がいる。

いちいち「大きな主語」を心配する人は,もしかしたらどこか傲慢なところがあるのかもしれない。言ってみれば,ゾウの身体を這っているアリが自分の体重を気にしているような滑稽さを感じることがある。

もちろん,他人に配慮した言葉を使うのは「他人のために」大事なことだ。無自覚に大きな主語を使う人の無神経さがこのような「大きな主語恐怖症」を蔓延させたのかもしれない。だからといって,小さな主語に形式的に置き換えて世の中が寛容になるわけではない。それは,多くの人が「自分のために」他人に嫌われない言葉を使いたがるから,ではないだろうか。

重要なのは,大きな主語を使うか小さな主語を使うかではなく,大きな主語が見落しがちな多様性に対する理解を持っているかどうかだ。例えば,全く多様性に対する関心も理解もなく,小さな主語を使う人はいるだろう。「私は私,あなたはあなた」で他人とは相互不干渉でいたい,というような人だ。その反対に,多様性に配慮しながら大きな主語で「我々」が共有出来ることを求める人もいるだろう。

こんなことをよく思うのは,我々の社会が,この「大きな主語恐怖症」によって悪しき相対主義に染まりつつあるように見えるからだ。小さな主語で語らなければならない,という「奴隷道徳」によって,ただでさえちっぽけな人間がさらに小さく分割されていく。その臆病さの先には,大きな理想を抱くことも出来ず,野獣のように目先の利益を貪る「現実主義」しかない。

ゾウの身体を這うアリにも遠く及ばないちっぽけな人間として,せっかくこの大きな世界に生まれたのだから,間違えたら反省しながら精一杯大きく世界を語っていきたい,と私は思うわけである。

出力論組プログラム虎哲*イチ 1.01
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