(りんかくかくめい)
輪郭法による革命。デライト開発最初期に使い始めた語。知識産業革命,デルン革命,デライト革命といった表現もあるが,特に,輪郭という概念がもたらす社会的印迫を強調したもの。語呂の良さも気に入った。この時によく連想していたのは「限界革命」である。
長期安定体制をじっくり構築するため,6月・7月は半ば夏休み気分で過ごしていたが,8月からは気持ちを切り替えてデライトの完全な成功・希哲館事業の成功に向けて調子を上げていきたい。
そんな8月最初の一日一文の題材には,私自身の成功観についてが相応しいだろう。そもそも私自身がこの希哲館事業で何を目指しているのか,改めて,これまで以上に明確に記しておきたい。
さて,「デライトの完全な成功」というのは希哲館事業における目下最大の課題だ。
人気があるサービスが必ずしも幸福なサービスではない,というネットサービス開発・運営の難しさが旧 Twitter の騒動で広く知られるようになった。もっとも,非業界人にも分かりやすくなっただけで,全く問題を抱えていないサービスはほぼ存在しないというのが業界の実態だ。
デライトは,集客に成功していない点を除けば,あらゆる意味で極めて上手く行っているサービスと言える(デライトの不完全な成功)。これが「デライトの完全な成功」という表現を多用している理由だが,ではなぜデライトは集客に成功していないのだろうか。よく考えてみればそう不思議なことでもない。
多くのサービスは当然ながら営利目的なので,集客を第一に考える。すぐに利益が出なくても「金の卵」である利用者数が伸びれば投資は集まる。その過程で,無理な資金繰りをしたり,人間関係や権利関係でしがらみを作ったり,いわゆる技術的負債を積み上げてしまったり,構想として小さくまとまってしまったりする(これが日本人に一番多い)。そうしなければ生き残れないからだ。デライトの場合,幸運なことに,そうしなくても生き残れてしまった。集客を最後に回せた稀有なサービスなのだ。
デライトとその完全な成功が何のためにあるのかといえば,希哲館事業の成功ためだ。デライトの背景としての希哲館事業については「デライトの歩み」にもざっと書いたが,日本でかつてのイギリス産業革命を越えるような知識産業革命を起こして米中を大きく凌ぐ極大国(ハイパーパワー)に成長させ,日本を盟主とした自由民主主義の究極形(希哲民主主義)によって世界中の権威主義体制を打倒,知によって万人が自由と平和と富を享受出来る世界を作り上げることが希哲館事業の目的であり,最終的な成功だ。
これが実現出来なければ,世界一の大富豪になろうが自分は「失敗者」である,というのが私が17歳頃から引きずってきた呪縛のような成功観だ。
振り返ってみれば,これまでの人生には世間でいう程度の「成功」を手にする機会はたくさんあったのだが,大欲は無欲に似たりというやつで,全く興味が持てなかった。その中には,とりあえずデライトをよくあるような人気サービスにする,くらいの成功もあったのだろうと思う。無論,そんなことのために将来の希哲館事業に致命的な禍根を残すわけにはいかなかった。こうした選択の積み重ねが「デライトの不完全な成功」につながったのだろう。
ありがたいことに,デライトにも,サービスとしての成功を親身になって考えてくれる利用者達がいる。もちろん嬉しいことなのだが,私が思い描いている「成功」を共有することの難しさ,そしてそれに起因する温度差も常々感じている。
「知のあり方を一変させる情報技術」の全てが例外なく構想倒れに終わってきた歴史の中で,希哲館事業という人類史上最大の事業構想を背景とした世界初の実用的な知能増幅技術をこの水準で実装し,問題という問題もない体制で安定的に運営し,少ないとはいえ継続的な利用者がいて,しかも開発者が非常に幸福な生活を送れているなんて,真面目な話,すでに「とてつもない成功」以外のなにものでもない。
そもそも,世の中のサービスと比較してみようと思える時点で,こんな気が狂うような構想をコンパクトかつカジュアルにまとめることに驚異的に成功しているということだ。デライトは,ここに存在していることで時空の歪みが生じているのではないかと思えるくらい,本来この世にありえないような代物なのだ。
そのデライトの集客面での成功,すなわち完全な成功は,大袈裟でなく世界史を前後に両断するような出来事になる。流石に,いわゆる「一発当てる」感覚で考えられるようなことではない。
私が生きている内にデライトの完全な成功を果せなくても本来は当たり前,あと50年で果したらちょっとした奇跡,10年ならとてつもない奇跡,1年なら奇跡という言葉が陳腐に感じるほどの何かだろう。ここまで来たら腰を据えてじっくりやる以外ない。長期安定体制に舵を切ったのも必然といえば必然だった。
私の成功観の特異性は,その巨大さだけではない。さらに理解してもらうのが難しいであろう複雑さも伴っている。すでに十分長い文章になったので,これに関しては後日気が乗った時にでも書きたい。
激化する SNS 戦国時代の中で,サービス文化について考えさせられることが多い。今日はちょっと面白い発見もあった。
以前にも SNS におけるオタク文化について考えたことがあるが(3月1日の日記),依然としてその影響力は強いと感じる。例えば,Misskey の猫耳機能などは私の価値観からすると完全にありえないものだが,そういう部分があることでオタク層からの信頼を得ている面はあるだろう。誰かにとっての「居心地の良さ」を提供することは SNS の核心であって,Misskey はまだ小規模ながら興味深い事例ではある。
最近でいえば,Threads の急速な台頭によって,キラキラした Instagram 的な場に対する「ドブ川」としての Twitter に,想像以上に多くの Twitter 用者が想像以上に強い愛着を持っていることが分かってきた。「陽キャ」に対する「陰キャ」のコミュニティであるという意識もやはり根強いようだ。それは単なる自虐というより,昔から言う「明るい人気者ほどつまらない」とか「面白い奴には根暗が多い」とか,その種の含みがある。
確かに,自分が好きだったお笑い芸人なんかを振り返ってみても,根暗でひねくれていた人ばかりだ。そういう人が,業界で一定の地位を築いて妙に社交的な「明るい人」になったりして,つまらないことで笑うようになり,かつての面白さを失っていく,という哀しい現象もよく見てきた。
明るい人というのは箸が転んでもおかしいという人なので,日常にそこまでひねりの効いた刺激は求めていないのだ。Twitter 用者が Instagram 的な SNS に感じるつまらなさとは,こういうことなのだと思う。
幼稚なデマに煽られやすいなど,全体としては知的脆弱さが目立つ Twitter ではあるが,役立つ投稿や面白い投稿が比較的多いことは認めざるをえない。学問も文芸も,多少ひねくれていたり,オタク気質だったりするくらいが丁度良いからだろう。その点で,Twitter 文化にはマイクロブログ型 SNS における確かな優位性がある。
そういう観点からデライト文化について考えてみたら,対 Twitter 戦略なんて無理筋じゃないかと一瞬思いかけた。というのも,デライト文化の種子たる私自身が,人間の限りない可能性と限りない成功に対して限りなく楽天的な性格であって,その実現のためにデライトを開発してきたからだ。サービス名を〈delight〉(歓喜)にかけているくらいなので,そもそもデライトはこの上なく明るい気分から生まれている。そういう意味では,インスタグラマーも真っ青なキラキラ志向なのだ。
単純な話,Twitter が陰キャ寄り,オタク寄りの SNS だとして,デライトがそうでないとすると,どうやって用者を移行させるのかという問題がある。ここまでのデライト運営の実感としても,Twitter をはじめとするマイクロブログ型 SNS からの訪問者は,明らかにデライト文化に引いている。
そんなことに思い至った時,この頃,全く別の文脈で自分の性格についてよく考えていたことを思い出した。
ここ数年くらいで確信を深めていることなのだが,どうも私は病的に明るい性格らしい。希哲館事業の経験を積む度に,自分の明るさに助けられていると感じることが増える。
世界初の実用的な知能増幅技術であるデライトによって知識産業革命を起こし,かつてのイギリスのように,国家模体として日本を極大国(ハイパーパワー)に成長させ,その日本によって知識産業を中心とした新しい国際秩序の形成を主導する,ということを大真面目に実践しているのが希哲館事業だが,まず,並大抵の精神でこれを支え続けるのは誰がどう考えても不可能だ。
常人がなんとか続けたとして,40歳近くにもなれば頭髪は白髪で真っ白なら良い方で,全部抜け落ちていてもおかしくない。顔は若く見えて60歳相当には老け込んでいるだろう。
ところが,現実の私は,実年齢よりもずっと若く見られることが多かった。ここ数年はデライト開発でだいぶ生活も乱れたのでどうか分からないが,少なくとも,年齢相応の苦労を重ねてきた男性の顔には見えないな,と自分でも思うような顔をしている。20代の頃はあまりにも幼く見えたので,むしろ老けたくて仕方なかったくらいだ。希哲館事業構想の一環として三船敏郎のように強い日本人の象徴となる顔が必要だと10代の頃から考えていた私にとって,幼さに対する混複は非常に大きかった。
表情もまたなんとも楽しげで,実際これが毎日楽しいのだ。クスリでもやっていないとおかしいくらいだ。実際にはクスリどころか酒もたばこもやらないのだが,たまに,自分が知らないうちに麻薬でも打たれているのではないかと考えてしまうことがある。毎日デライト上に記録している通り,生活はかなり健康的な部類だろうと思う。
この未曾有の重圧にしてこの気楽ぶり。環境に恵まれているというのも大きいが,それだけでは説明し切れないものがある。
思い出すのは,「子供の頃は姉と一緒で明るい子だった」とよく言われていたことだ。姉が非常に明るい性格のまま育ったのに対して,私はある時期から考え込むことが多くなり,人付き合いも口数も減っていった。その先に希哲館事業があるわけだが,いま思うと,希哲館事業のとてつもなく巨大な影を丸呑み出来るだけの根の明るさがあったのだろう。
世界の思想史を通観して,思想家として捉えた場合の自分の特異性について考えると,やはりこの明るさに行き着く。『考える人』しかり,思索にふけっている人なんて大体みんな憂鬱そうな顔をしている。私自身の体験を振り返っても,いわゆる明るさと思慮深さを両立させるのは難しい。思考というのは脳を占有し疲労させるものなのだから,科学的な説明もそう難しくないはずだ。私のように「笑いながら考える人」はそういない。
これは SNS における明るさと面白さの両立という課題にも通ずるのではないかと思ったわけだ。Instagram や Threads などの「つまらない明るさ」はテキスト向きではない。かといって,「面白い暗さ」の Twitter も SNS としては長らく伸び悩みの状態にある。デライトの個性を「面白い明るさ」という第三の道と捉えると,むしろ大きな希望に思えてくる。
一昔前でいう月9が Instagram 的なもの,昼ドラが Twitter 的なものだとすると,デライトが目指すべきは日曜劇場,つまり,『JIN』や『半沢直樹』のような世界なのかもしれない,などとも思った。キラキラでもなくドロドロでもなく,ギラギラという感じだ。
特に『JIN』は,希哲館事業発足から間もない頃に放送されていて,奇妙な運命を背負ってしまった主人公と自分を重ねながら観ていた想い出深いドラマだ。気付けば南方仁と同じ年齢になっているのもなんだか感慨深い。
(書きたいことはまとまっていたが書き終えるのに20日までかかってしまった)
dlt.kitetu.com
}{デライト2周年}{難}{一段落}{一編}{研究}{話}{今}{形}{英語}(600)デライトは,今年の2月13日に2周年を迎えたばかりの若いサービスだ。しかし,その背景には長い長い歴史がある。詳しく書くと書籍数冊分くらいにはなる話だ。デライトの完全な成功を目前にした良い頃合いなので,駆け足で振り返ってみたい。
技術としてのデライトは,私が17歳の頃,主に哲学と情報学への関心から「輪郭法」を閃いたことに始まる。2002年,もう20年前のことだ。デライトにおける輪郭法の応用については,「デライトの使い方の考え方」で出来るだけ簡単に解説したつもりだが,本来の輪郭法は,“輪郭という概念を中心にした世界の捉え方”であり,哲学用語でいう「弁証法」に近い位置付けの概念だ。
このアイデアが,哲学上の理論に留まらず,極めて実践的で,極めて強大な技術になりうることに気付くのに時間はかからなかった。これを応用することで,計算機科学における長年の最重要課題を解決し,知能増幅(IA)技術の実用化につなげることが出来る(参考)。すでに IT 産業の勢いが明らかだった当時,これは“世界史上最大の成功”と“知識産業革命”への道が開けたことを意味していた。
さらに,アメリカ同時多発テロ事件が起こって間もない頃だ。後の英米政治危機,世界に広がる社会分断,SNS の暴走,そして目下のウクライナ侵攻を予感させる事件だった。
あらゆる争いの背景には,世界の広さに対する人間の視野の狭さと,それによる“心の分断”がある。当時から私はそう考えていた。我々は,世界の一部分をそれぞれの立場から見ているに過ぎない。立場が違えば見える世界も違う。その衝突を回避出来るとすれば,個々人の世界に対する視野を広げるしかない。輪郭法の応用技術にはその可能性があると感じていた。この考え方が現在の KNS という概念につながっている(参考)。
この閃きは止まるところを知らなかった。17歳の少年の人生観も世界観も,何もかもを瞬く間に作り替えてしまった。この閃きをどこまで大きく育てられるか,それだけを考える人生になった。適当に金に換えることも出来たかもしれないが,世界にかつてない平和と豊かさをもたらす鍵を手に入れたようなものだ。中途半端な売り物にすることなど,現実には考えられなかった。能う限り最高の状態で世に出さなくてはならないと思った。
もちろん最初は,とんでもない宝くじに当たったような気分だった。天にも昇る心地とはこのことだろう。どんな人生の喜びも,この喜びには勝るまい。少しばかり時間が経ち,冷静になるにつれ,呪いのような重圧に苦しむようになった。
理論や技術として完成させられるかどうかは時間の問題だと考えていた。本当の問題はその先にあった。地動説にせよ進化論にせよ,世界の見方を大きく変える考えには無理解や反発が付き物だ。常識を越えた考えであればあるほど,その壁は大きくなる。どれだけ努力しても,死ぬ前に認められることはないかもしれない。当時の私は,エヴァリスト・ガロアのように生涯を閉じるのではないかと想像していた。偉大な発見をしながら夭折し,死後何十年も経ってようやく評価された数学者だが,なんとなく親近感を覚えていた。
そして,技術は良い方にも悪い方にも利用されるものだ。これが「世界初の実用的な知能増幅技術」になるとすれば,最初に使うであろう私は「世界初のトランスヒューマン(超人間)」になる。全人類の模範となって,人々を未踏の領域へと導く……自分がそんな重責を担える人間だとは,まるで思えなかった。能力はともかく,昔から自分の人間性を全く信用していなかった。
無論,そんな自信は20年ほど経ったいまでも無い。それでもここまで来たのは,曲がりなりにも出来そうな人間が自分以外にいなかったからだ。何もしないよりは,挑戦して失敗例を残す方が良い。それに,一度ここまでのことを考えた人間が,何食わぬ顔で平凡に生きていけるわけもなかった。
色々な葛藤を乗り越えて,2007年,22歳で「希哲館事業」を始めた。輪郭法を応用した知能増幅技術の開発・管理・普及活動を中核として,知による産業革命と知による民主主義の確立を目指す事業だ。
「希哲館」というのはこの事業の中心となる機関として構想したもので,その名は「哲学」の元となった「希哲学」という古い翻訳語にちなんだものだ。
「知を愛すること」を意味するフィロソフィーを「希哲学」と昔の人が意訳し,それがいつの間にか「哲学」として定着したわけだが,日本語で哲学というと,思想家や学者など一部の人のもの,という語感がある。実際,誰もが賢哲にはなれないだろう。しかし,誰でも「希哲」(知を希求する人)にはなれる。これからの時代に最も重要で,万人が共有出来る価値観を表現する言葉として,これ以上のものは見つからなかった。
情報技術を中心に知識産業が絶大な力を持ち,その反動からいわゆる反知性主義が世界中で社会分断を招いている今,この観点への確信は当時以上に深くなっている。
見ての通り,希哲館事業の一環であるデライトは当初から意図的に dlt.kitetu.com
というドメイン名で運営している。それも背景を踏まえればごく自然なことだが,利用者には分かりにくいことだった。今後,こうして説明する機会も増やしていきたい。
事業開始後間もなく,運が良いことに裁量の大きいシステム開発の仕事を得られたりして,それを足掛かりに技術的な蓄積を進めていった。
そして,2012年,26歳で輪郭法応用技術「デルン」の実用化に成功した。輪郭法は英語で〈delinography〉としていたので,それを縮めて〈deln〉とした。ウィキともブログとも異なる全く新しい CMS であり,おかしな語感もこれらにならった(参考:「デルン」の由来)。
しかし,世に出すことをすぐには考えられなかった。なんとか使えるようになっただけで,製品としては難が多過ぎたし,市場戦略や知財戦略も全く固まっていなかった。構想の大きさが大きさだ。万が一にも失敗は許されない。可能な限り技術としての完成度を高め,万全を期して世に出す必要があると考えていた。
それまでは,デルンそのものを製品化するのではなく,背後でデルンを利用したサービスで資金稼ぎするつもりだった。結局そう上手くは行かないまま,デルンと周辺技術の開発,応用法の研究,希哲館事業構想の体系化といったことに時間を費す生活が続く。
デルンを世に出す準備を始めたのは,実用化からさらに5年ほど経った2017年のことだった。私は32歳になっていた。
諸々の調査・研究・開発が一段落したところに,ブレグジットやトランプ当選などを巡り社会分断が世界中で顕在化した頃だった。特に着目したのは,その背景に SNS があったことだ。デルンによって SNS を知的交流の基盤に拡張する──長年温めていた KNS(knowledge networking service)構想を活かすならここしかないと思った。
それから1年ほどかけ,デルンの製品化に向けての検討を重ねた。2018年,最終的に,誰でも簡単に使えるメモサービスとして公開することに決めた。これが,ライト版デルン(Deln Lite),「デライト」(Delite)の始まりだった。
あとはひたすらサービス公開に向けた作業に没頭し,2020年2月13日24時15分,ついにデライトという形でデルンが,ひいては輪郭法が世に出ることになった。
ただ,後に「名目リリース」と呼んだように,積極的に人に見せられる出来ではなかった。公開はしていたものの宣伝はほとんどせず,改良を続けてなんとか最低限の品質になったと判断出来たのは同年8月13日のことだった。これを「実質リリース」と呼んでいる。私は35歳だ。
不完全な形での公開に踏み切ったのは,ソフトウェア開発において「完璧主義」が仇となりやすいからだ。不完全でも早く世に出して修正を繰り返した方が良い。そしてこれは正しかった。ソフトウェア開発では常識に近いことで,私も頭では分かっていたが,実は半信半疑だった。
実際,デライトに多大な貢献をしてくれている常連利用者の2名は,名目リリースから実質リリースの間に使い始めている。内心,誰も使わないだろうな,と思いながら一応公開していたわけだが,予測は良い意味で裏切られた。
デライトの公開からは,本当に,本当に,色々なことがあった。あまりに色々なことがあり過ぎて,時間の感覚もおかしくなっている。わずか2年前が大昔のようだ。とてもではないが,ここには書き切れないし,今はこれ以上書く気にもなれない。そもそも読み切れないだろう。
ただ,確かなことは,奇跡のように素晴らしい時間だった,ということだ。理解ある利用者達とともに,夢と希望に満たされて,デライト開発は快調に進んできた。“デライター”達への感謝はまた別の機会にしっかり綴るつもりだが,本当に皆のおかげだ。
近頃,私は「デライトの完全な成功」という表現をよく使っている。「デライトの成功」と目標を表現することに違和感を覚えるようになったからだ。成功していないと言うには,あまりに上手く行き過ぎているのだ。
今のデライトは,利用者が十分に集まっておらず,それゆえに十分な利益も上がっていない。ただ,それを除けば,ソフトウェア開発プロジェクトとしてほとんど理想的な状態にあると言っていい。ことインターネット サービスというのは,どれだけ人気があっても売上があっても,それぞれに様々な問題を抱えているものだ。デライトには,集客面以外で問題という問題がない。
本格的に集客出来るようになれば,鬼に金棒,完全無欠,つまり「完全な成功」というわけだ。その最後の課題である集客面でも,最近は改善の兆しがある。デライトは,“世界史上最大の成功”に王手をかけている。
生きている内に日の目を見ることはないかもしれない,などと考えていた出発点を思えば,やはり奇跡としか言いようがない。
何より,私はまだ37歳だ。それも,この技術に20年の時間を費した経験を持つ37歳だ。事故や病気でもない限り,あと50年は持ち堪えられるだろう。駄目で元々。命ある限り,私が諦めることはない。
デライトは4月29日から四度目の宣伝攻勢に入っている。この「一日一文」もその一環だ。
本来,一日一文は,その名の通り毎日一編の文章を書こうという日課なのだが,たまに何気なく重い題材を選んでしまい,筆が進まなくなることがある。今回も,5月半ばに何気なく書き始め,書き上げるのに2ヶ月以上かかってしまった。
20年の歴史をちょっとした文章にまとめるのには,流石に精神力が必要だった。無数の想い出を行間に押し込んで,無理矢理まとめた。
デライト開発が正念場を迎えているので,今後も頻度には波があるだろう。気長に待っていてほしい。
定休日のため無理をしない程度に作業をしようと思っていたが,一日,思いのほかぼーっと過ごせた。最近,休むに休めないことが問題だったので,少し安心した。久しぶりにぶらぶらサイクリングも出来た。
脳爆発に整理をつける糸口が掴めたことでだいぶ気が楽になったようだ。
第四次黄金状態では脳爆発に抗わず,むしろ促進してしまった方が良い,と考えてからしばらくは上手く行っていたが,こう脳爆発が続くと,噴煙で視界が悪くなるように頭の整理が出来なくなってくる。
これが心理的負担だったようで,最近,生活習慣は乱れがちで,心身の調子も概ね良好ではあるものの黄金状態というほど冴えてもいない,という微妙な状態が続いていた。
大輪郭整備を経て脳爆発が完全に利用出来るようになれば,今度こそ本当に第四次黄金状態を物にしたと言えるだろう。
ウクライナ侵攻についても,初めてまともに考えることが出来た。侵攻が始まった2月24日は,ちょうど新しい脳爆発の連鎖が起き始めた日で,まともに考える余裕が無かった。
20代のころロシア史を熱心に勉強して,『ラドガに到着したリューリクと兄弟達』を希哲館素材絵画にしたり,虎哲と並ぶ新交通機関構想にリューリクをもじった「竜力」という名前を付けたりしていた私にとって,運命を感じる事件ではあった。
そして,あの英米政治危機から顕在化した自由民主主義の脆弱さが招いた結果だ。私に出来ることは,知識産業革命を成し遂げ,希哲民主主義を確立し,独裁者に付け入る隙を与えない,強い自由民主主義を作り上げることしかない。私にしか出来ないことでもある。
ジパング計画にもいよいよ猶予が無くなってきたが,もう麻痺しているのか,不思議と重圧感は無かった。