知恵の象徴。
一日一文という日課を再開して3ヶ月経ち,希哲館事業についてもだいぶ伝えやすくなったと感じている。
この希哲館事業も,11月1日に14周年を迎える。もっと遡って,17歳の時の「閃き」を原点とするなら,もう20年近い歴史がある。今まさにデライト収益目標達成に向けて大詰めという時期だが,これだけ長い間,まともな収益がなく事業が存続してきたことには,いくつかの理由がある。
まず,「日本はどう逆転するか」や「私の政治思想」などを読めば分かるように,希哲館事業構想は,「人類史上最大の事業構想」と言っても過言ではない無謀の極みであり,当然ながらその自覚と絶望から始まっている。
希哲館事業の可能性に気付いた17歳の私は,その過程にある,あらゆる困難を想像し,絶望と戦うことになった。
この前年,アメリカ同時多発テロ事件があった。希哲館事業の根底には,あらゆる宗教,あらゆる思想を越えて世界を連帯させうる“新しい価値観”への世界的な要請があったように思う。
今となっては笑い話に近いが,そんな世界情勢もあり,私は,イスラム過激派にでも捕まって自分が生きたまま首を斬られたり,日本を追われて世界を放浪したりするのではないか,そんなことまで想像していた。そんな極限状態でもこの事業を育てるために,あらゆることを考えた。
閃きから5年後,私はあらゆる困難と戦う覚悟を決め,希哲館事業を始めた。全ての神,自分以外の全ての人間を敵に回すかもしれない,人生の全てをかけた努力が全く報われないかもしれない。それでも自分はこの事業に尽力しよう。そういう覚悟だ。
希哲館館章「竜胆蛍」は,この絶望的な暗闇に飛び出す一匹の蛍を模したものだった。希望と知の儚い光であり,滅びの美学のような,私の人生観と覚悟を象徴するものでもあった。
それから14年近く経つが,想像していたような貧苦も迫害もなく,この日本社会でぬくぬく楽しくやってこれてしまった。稼げなくても大して困らず,あの覚悟のおかげで,むしろぬるま湯のように感じていた。
希哲館事業を始めたばかりの20代の私には,自分の5年先の人生が全く想像出来なかった。20歳ちょっとの時は25歳くらいで死んでいるだろうと思っていたし,25歳くらいの時は30歳まで生きていないだろうな,と思っていた。いま私は36歳だが,健康そのものだ。
家族にも親戚にも見放され……というようなことも覚悟していたが,そんなこともなく,関係は割と良好だ。
もっと若い頃の私は,端的に言って「極度の世間知らず」だった。希哲館事業なんてものを始められる人間は,日本どころか世界を見渡してもまずいない。それが出来るのだから,何か自分には特別な力が宿っているのではないか,などと思っていた。自分は矢吹丈みたいなものだと思っているくらい,環境というものを無視していた。
散々周囲に助けられ,世間について知るごとに,そういう考えは出来なくなった。どんなに覚悟があり性格が向いていても,この特殊な環境が無ければここまで来れなかっただろう。
最近,父親と話すことが増え,父に似た性格も希哲館事業を続けていられる小さくない要因だなと思う。
父は子供の頃から数学が好きで,埼玉大学の数学科に入ったものの学生運動のごたごたで中退,その後は情技(IT)で起業してみたり色々あり,いま70歳を越えているが,画期的な数学の教科書を作って数学塾を開こうと奮闘している。
いつまで経っても金を稼ぐのが苦手で,ぼろぼろになりながら夢追い人を続けているような人だ。なけなしの貯金でデライトに出資してくれるような不思議な人でもある。
そんな父を見ていると,70歳,80歳になっても希哲館事業を続けている自分が容易に想像出来てしまう。
私も,もう希哲館事業について考え始めてからの人生の方が長い。デライトで多少世に出た感はあるが,それはつい去年のことだ。仮にデライトがずっと鳴かず飛ばずだったとしても,死ぬまでこんなことを続けているのだと思う。
あばら屋のような状態だった頃から使い続けてくれている用者が有り難いのは言うまでもないが,たとえ苦言の一言を残していくだけでも,デライトにとっては有り難い用者だ。開発者として首肯しがたい意見でも,様々な感じ方・考え方を知る機会にはなる。
迷惑行為や違法行為となるとそうも言っていられないが,これまでその手の悪質な用者は一人もいなかった。そういう意味で,デライトには良い用者しかいない。
先日の一日一文でも書いた通り,デライト開発では私が全ての作業を担っている。しかし,独力でここまで来たわけではない。周囲の助けに加え,用者達の存在が無ければ決してここまで来れなかっただろう。
もちろん,用者からの要望や意見をきっかけに発展したことは多い。用者の使い方を観察して気付いたことも多い。決して建前ではなく,実質的にも,デライトは用者とともに作り上げてきたものだ。
だが何より,用者の存在自体に勇気付けられることが多かったように思う。こんな奇妙奇天烈なサービスに,よくもここまで人が集まってくれたものだ。どんな声でも,誰かには届くものなのだな,としみじみ思ったりする。
デライトでは,<ruby>出放り<rp>(</rp><rt>デフォルト</rt><rp>)</rp></ruby>の用者アイコンに「竜胆蛍」という独自の意匠を使っている。笹竜胆という家紋を蛍火に見立てて変形させたものだ。
これは元々,希哲館の館章として考案したものだった。知識産業革命と希哲民主主義の樹立という途方もない目標を持つ希哲館事業,そしてそれに全てをかける自分自身を,私は蛍のようなものだと思っていた。真っ暗闇に舞い,知恵と希望の光を灯す一匹の蛍だ。
一匹が二匹に,二匹が三匹に,やがて無数の蛍が集まり世界を照らす……そんな夢を見ながら,自分は儚く一匹で死ぬに違いない。それがこの事業を始めた頃の私の人生観だった。
それが何だかんで上手くやってこれて,知能増幅メモサービスなんてものを世に出し,一匹の蛍が二匹に,二匹が三匹に……それが現実のものとなった。今でも,ときどき夢を見ているような気分になる時がある。
元より,一人でも,神に抗うような無謀であっても,やらなければならないと思って始めた事業だ。明日,全ての用者が去って一人になっても私が目指すことは別に変わらない。それだけの芯が無ければ,知の希求を掲げるサービスとして信頼に足るものにならないだろう,とも思う。
今後がどうであれ,これまでの全てのデライト用者に感謝の意を表したい。今のところ,デライトにも希哲館事業にも大きな希望があり,私が果報者なのは皆のおかげだ。
希哲12年10月13日命名。
胸部が赤く,黄緑色に発光する蛍のようにアボカド(緑)とトマト(赤)を中心にしたサラダ。
希哲12年10月29日の食事からカボチャを加えた。
希哲12年11月14日の食事から,野菜の種類を厳密に管理出来るように,市販の出来合いサラダではなくカット野菜(キャベツの千切りなど)を使い始めた。
希哲12年12月6日の食事から,まな板を使わず,アボカドを半分に切ってのせるようにした。よく考えてみれば切る必要はあまり無かった。デライト初離立に向けての作業に没頭するなか,食事が雑になっていたのを是正するため調理を簡単にした。
希哲13年4月13日,ブロッコリーを加え始めた。