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{オスマン帝国 K#F85E/33D1}

オスマン帝国は,トルコ系王家,オスマン家を君主とする。現在のトルコイスタンブールを首都に据え,西はモロッコ,東はアゼルバイジャン,北はウクライナ,南はイエメンにまで至る広大な領域を支配した他民族国家。

アナトリアの小国から発展したオスマン朝は,やがてビザンツ帝国などの東ヨーロッパのキリスト教国,マムルーク朝などの西アジア北アフリカのイスラム教国を支配し,地中海を覆う大帝国に成長したが,ロシアの南下,イタリアの独立,フランス革命などを契機として領土内の独立運動が盛んになり,20世紀初頭には,オスマン帝国の勢力範囲はバルカンの一部とアナトリア,アラブ地域になり,第一次世界大戦を経て,最後の領土アナトリアからトルコ民族の国民国家であるトルコ共和国が発生し,オスマン帝国は終焉を迎えた。

呼称

トルコ民族のトルコ共和国の前身であることから,オスマン・トルコ (Ottoman Turks), トルコ帝国 (Turkish Empire) と呼ばれることもあったが,帝国時代の多民族国家という実態に即し,現在ではオスマン帝国 (Ottoman Empire) やオスマン朝という。

中央集権体制の瓦解から第一次世界大戦まで

18世紀に入ると,ロシア帝国が南下。1774年,キュチュク・カイナルジ条約によって帝国は黒海の北岸を喪失し,1792年にも再び破れ,クリミア半島をロシアに譲った。

国内においても,成長を続けていたアーヤーンが地方政治の実権を握り,ギリシャ北部からアルバニアを支配したテペデレンリ・アリー・パシャのように半独立政権のごとく振舞うものも現れた。

さらに 1798年のナポレオン・ボナパルトエジプト遠征をきっかけに,エジプトの実権を掌握したムハンマド・アリーは,1830年反乱を起こしてエジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ,事実上独立した。

フランス革命の影響

フランス革命から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族のナショナリズムを呼び覚まし,ギリシャ独立戦争 (1821-1829) によってギリシャ王国が独立を果たした。

東方問題(欧州諸国の外交問題)

これに加え,バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア,勢力均衡を狙うイギリスフランスの思惑が重なり合い,19世紀のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を経ていった。このオスマン帝国を巡る国際問題を東方問題という。

近代

ギュルハネ勅令の発布,タンジマートの始まり

1839年,アブデュルメジド一世は,改革派官僚ムスタファ・レシト・パシャの起草したギュルハネ勅令を発布して全面的政治改革を始めることを宣言し,崩壊の危機に瀕したイスラームの古典的な中央集権政治から,行政・軍事・文化の西欧化を目指すタンジマートを始めた。

アジア最初の憲法,ミドハト憲法発布

1876年,国会の開設などを含む。