なぜカタカナ外来語を訳すのか

描主宇田川浩行K#F85E
下描き希哲13年(2019年)
06月12日 00:28
利承
ライセンス
希哲館普通利承(KULクール

思えば,私がカタカナ語として使われている外来語翻訳に取り組み始めたのは,約12年前,希哲館事業の発足と同じ時期だった。

希哲館事業では足がかりとして情技IT)を最重要視していたため,技術文書の翻訳活動も自然に始まった。

しかし,翻訳を始めてから間もなく,この分野ではあまりにも多くの外来語が翻訳されずにカタカナ語として放置されていることに気付いた。よく言われることではあったが,翻訳を実践してみると,英語をカタカナに置き換えるような作業が多過ぎることに唖然とした。「これは翻訳と言えるのだろうか?」……これが外来語翻訳の必要性を強く実感した最初の記憶だ。

カタカナ外来語が放置される理由は,技術への理解と翻訳の能力を両立させた人材がほとんどいなかったこと,一人でも率先して訳語を使用する者がいなかったこと,雇われの立場に甘んじる技術者が多く,流行を追うことに関心が集中し知識を蓄積する動機に乏しかったことなど,いくつか考えられる。もちろん,背景には日本の教育日本社会の問題があるだろう。

「変化の速い分野だから翻訳するだけ無駄」ともよく言われていたが,数十年放置されている外来語も数多くあり,これは明らかに怠慢の言い訳でしかなかった。今やアメリカを脅かすまでに成長した中国では昔から技術用語の翻訳も盛んだ。日本人は真摯に反省する必要がある。

もう一つの問題として,カタカナ外来語を翻訳しようと言うと,カタカナ語へのある種の「愛着」を否定されたような気分になってしまう人がいる。そういう人は,「カタカナ語の柔軟性」が捨てがたいからとか,「カタカナ語独特の雰囲気」が好きだからと翻訳に否定的な反応を示したりする。その誤解も解く必要がある。

まず,私はカタカナ語を否定しているわけではない。「カタカナ語しか選択肢がない」状況を改善しようというのが希哲館における翻訳活動の趣旨だ。私も表現としてカタカナ語が相応しい場面ではよくカタカナ語を使うが,それをより効果的にするには表現の幅が必要だ。カタカナ語まみれの文章の中でカタカナ語を印象的に使うことは出来ない。

そしてカタカナ外来語はあくまでも外来語を「ざっくりと」表現する補助的な手段でしかない。欧文表音文字で表現されているが,文字の構成には歴史的な特徴があり,仮名よりも細かい音声を表現出来る。例えば,light, right, write と「ライト」の表現能力は同等では全くない。

仮名というのはあくまでも漢字と組み合わせてはじめて効果的な文字体系なのであって,表音文字としては貧弱なものだ。それに過度に依存すれば,日本語の機能低下は免れない。

そして日本人なら,日本語で様々な物事を十分に表現出来るに越したことはない。日本語で育った人間が英語を身につけることは,英語圏で育った人間に対する優位にはならない。しかし,日本語を極めることなら日本語育ちの日本人が一番有利で,唯一無二の価値になる。

これが日本人の私がカタカナ外来語をひたすら訳している理由である。

出力論組プログラム虎哲*イチ 1.01
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