希哲12年8月13日考案。
日本は仏教大国だが,その日本で生まれたデライトにも,仏教の影響かと思うことがいくつかある。
もともと,私自身が子供の頃から仏教的な考え方をしていた。小学生の頃,何も考えていなさそうな微生物が,自分で作り出した悩みにとらわれている人間よりも「賢い」生き物だと思っていた。特に仏教の教えを知っていたわけではないが,「縁起」のようなことも独自に考えている子供だった。
私はしばしば,17歳でデライトの基礎理論でもある輪郭法を思いついたことを「閃き」と呼んでいるが,これ自体,「高度非言語思考」と呼ぶ独特な思考法によって得たものだ。つまり,「言語にとらわれず思考すること」を独自に追求していたわけだ。これが仏教的かどうかはさておき,明らかに西洋思想的ではない。
私は西洋思想を「語りの文化」,東洋思想を「悟りの文化」と表現することがある。
言語的であるということは,順序的であり一面的であるということだ。言葉は順番に並べることしか出来ないが,それゆえに階層的秩序と相性が良い。西洋思想における「ロゴス中心主義」というやつだ。
しかし,当然ながら世界は平面ではなく,決まった順序で捉えられないことが数多くある。東洋思想は大昔から仏教を含めた「悟りの文化」を発達させ,この世界を非言語的に捉えようとしてきた。
19世紀頃から,「西洋人」達は西洋思想の限界と東洋思想の可能性に気付き始めた。先日の一日一文で触れたニーチェも仏教に傾倒していたことが知られている。20世紀以後の思想は,多かれ少なかれ東洋思想の影響下にある。
さて,デライトの出発点となった「閃き」だが,実は,もともと「悟り」と呼んでいた。後に語弊があるとして改めたが,それほどの神秘的な体験だった。
実際,この閃きから出来あがったデライトは,あらゆる情報が固有の名前を持たずに垣根なく連環し,立体階層構造を成すようになっている。これは私が16歳頃から実践していた高度非言語思考を具現化したものでもある。
一昨日の一日一文で書いた「黄金状態」というのも,実質的に悟りの境地みたいなものかもしれない,と思うことがある。デライトによって誰でも体験出来るなら,これに勝る用者体験は無いだろう。
もしかしたら,デライトを「触れる仏性」として「カジュアル悟り」を広めることが出来るかもしれない。不謹慎なようだが,必ずしも小難しい理論や厳しい修業によらず,時代に合わせて大衆化・軽常化してきたのが仏教の歴史だ。
メカソクラテスでもありメカブッダになるかもしれないデライトは,悟りの文化と語りの文化を統合した「閃きの文化」と言えるかもしれない。