最近,SNS 戦国時代を観察しながら「オタク文化」についてよく考えていたが,これまでオタクというものを漠然としか理解していなかったことに気付いた。
同時に,自分がオタクではないということにも気付いてしまった。昔から,オタク文化には抵抗が無いのにネットのオタク交鳴体がやたら苦手だった。それはオタク嫌いだからではなく,元々,子供時代から特定の集団に属することが苦手だったからだ。
教室の隅で漫画を描いているような子,勉強好きな子,スポーツ少年,不良少年……誰とでも遊びたいし,なんでも知りたい,なんでもやりたい,そういう子供だったよな,なんてことを思い出していた。私にとって,それが「自由」の原体験だった。やがてそれは人生観・世界観となり,希哲館事業にもデライトにも繋がっている。「なんでもメモ」の真意は,分野にとらわれず,この世界について網羅した百科全書を自分の中で育てようということだ。
そもそもこんなことを考え始めたのは,オタク交鳴体を味方に付けられると SNS の地盤作りには有利だなと感じることがあったからだ。人を選ぶ側面もあるが,デライトが今直面しているキャズムの早さと深さを考えると,隣の芝生的に羨ましいと思わなくもない。
結局,私自身は,オタク文化をつまみ食いするのは好きでも,オタク文化に囲まれるのは嫌いな人間であって,いわゆるオタクとは言えないのだということに気付いてしまうと,何かを期待していたことも滑稽に思えてくる。
巨大なオタク交鳴体を味方に付けても SNS の立ち上げには長い年月と大きな苦労が伴うというのに,デライトの文化を一から広めるってどれだけ無茶な話なんだ,という気重な気付きでもあった。前向きに考えれば,長年のもやもやが晴れてすっきりした部分もあるので,精神の最適化が進んだとも言えるか。