今月19日,「和製スティーブ・ジョブズ」を育てるなどと謳い,「面白いアイデア」を持った人物を10名選出したことを総務省が発表した。選ばれた方々には研究費が支給され,専門家も支援するとのことだ。
いまどき清々しいほどの愚策で,ちょっと笑ってしまう。とはいえ,ここまで日本の政策担当者が,現代の技術開発について理解していないことを端的に示した例も珍しいので,根本的に考えなおす必要を訴えるのに良い材料ではあるかもしれない。
日本人はこれまで,「一人では出来ないこと」を,世界最高品質に均質化された労働者たちの組織力によって成し遂げてきた。旧来の工業製品というのは,設計図よりも,製造工程や販売活動の質が最終的な成果を左右するものだった。一人の天才が誰にも真似できないような設計図を書いたところで,それを形にするまでの地道な作業が粗ければ不味い製品しか出来ない。反対に,多少設計が凡庸でも,丁寧に組み立てられた製品は相対的に良い製品となる。これで勝ってきたのが日本製品だ。
ところが,情報通信産業の隆盛がこれを変えてしまった。特に<ruby><rb>想品</rb><rp>(</rp><rt>ソフトウェア</rt><rp>)</rp></ruby>は,製造から流通までの費用が極端に安い製品で,資金のない個人でもインターネットを通じて販路を確保することが出来る。この部分で差別化が難しくなった結果として,いかに面白い設計図を書くか,という競争が世界規模で起きている。これにまったく対応出来ていないのが日本の現状で,まさに「和製ジョブズ」という発想の貧困さに表われてしまっている。
情報工学の分野で『人月の神話』(1975年)という古典的な名著がある。これは従来の工業製品と想品との根本的な性質の違いを訴えた著作で,革新的な想品は一人か極めて少人数でしか生み出せない,ということも語っている。「大いなる思考は会議で生まれたことはなかったが,馬鹿な多くの考え方もそこで死滅した」というのはフィッツジェラルドの言葉だが,これも集団の利点と欠点を的確に表現している。
いまは,その「大いなる思考」を生み出したものが勝つ時代だ。しかしこの「一人でしか出来ないこと」は,明らかに日本人の不得意分野だと思える。まず,協調性を重視するあまりに個人の感性や発想が殺されやすい。伝統的な社会秩序への信頼感が強く,公に依存しやすい。いまだに官主導で<ruby><rb>能新</rb><rp>(</rp><rt>イノベーション</rt><rp>)</rp></ruby>になると思い込んでいる。会議というのは場の常識によって物事を決めようという考え方で,公というのはその究極形だ。革新というのは生まれる前には常に非常識なのであって,いわば常識的に非常識を生み出そうとして苦しんでいるのがいまの日本だ。
もっと言えば,いまさら「ジョブズのような人」を生み出しても二番煎じに過ぎず革新でも何でもない。いまやジョブズがみんなに分かりやすい「常識」と化したから「ジョブズのような」になってしまうわけで,これも会議的思考の限界といえる。その「常識」を打ち破って,思いもよらなかった形で現われるのが本物の革新者だ。本物は意図的に作れない。
だから,総務省は税金の無駄遣いをまずやめよう。