日本の IT 業界に関する宇田川の用語。
2000年頃〜現在まで。
インターネットが発達する一方で,日本国内では技術的蓄積よりも派手で安易なネットビジネスに資本が集中するようになり,自立的な産業育成が困難になっている状況を指す。
『WELQ』問題を発端とした,インターネット上の悪質な献典〈コンテンツ〉についての議論が絶えない。テレビなどの古い鳴体〈メディア〉にとってはネットに対する恰好の批判材料にもなっている。これも本件の余波が大きい一因だろう。
先日の「『WELQ』で考える著作権問題」という文章でも書いたように,この問題を著作権問題として捉えることには一定の留意が必要だ。本来,際限の無い問題に一線を引くのが著作権法なので,それをモラルの問題にするとキリが無くなる。
では問題の本質はどこにあるのだろうか。私が思うに,『WELQ』問題とは突き詰めれば日本の IT 企業全般の「志の低さ」問題だ。
日本の IT 企業,特にインターネット企業が権利侵害に無頓着であることの根底には,「そもそも IT 企業とはそんなものだ」という意識がある。実際,Google にせよ Facebook にせよ,世界的成功例とされる企業も創業当初から権利侵害とは隣り合わせだったという事実がある。彼らは,新しい仕組みを生み出すためにしばしば他者の権利を侵害してきた。それもイノベーションのための必要悪だという「物語」を,日本の IT 起業家の多くが信奉しているのだ。
今月7日,『WELQ』を運営している DeNA の会見の中で,経営者側が繰り返す「(スピード感やチャレンジ精神といった)スタートアップの良さを失わないように」という言葉を受けて,記者が「コンプライアンスやモラルは守っていて当然なのではないか」という疑問を呈する一幕があった。これに対し経営者は無難な返答をしていたのだが,私はそこに,建前と現実の差とでもいうべき認識の根深い隔りを感じた。一緒にされたくはないが,大きく括れば同業の者として,彼らが腹の内ではそう簡単に割り切れない感情を抱いていることはよく分かる。
「そうお行儀よくイノベーションが出来るかよ……」と彼らの目が語っているようだった。
なぜアメリカの IT 企業は許されて日本の IT 企業は許されないのか。それがつまり「志の違い」なのだ。少なくとも成功したアメリカの IT 企業は,IT で実現したい世界のために金を稼いでいるが,日本の多くの IT 企業は,金を稼ぐために IT を利用しているに過ぎない。例えば権利侵害を「必要悪」とするためには,結果としてそれを大きく上回る公益を生み出さなければならないが,日本の IT 企業にはそれが出来ていない。実質的に「金を稼ぐための権利侵害」,つまり泥棒同然のことしかしていないのだから,社会的に認められるわけがない。
DeNA に限ったことではないのだが,日本の IT 企業は手っ取り早く金になることを求め過ぎる。DeNA の場合も,利益になりそうな流行り物に飛びついてるだけで事業に信念がまったく感じられない。創りたいもののために困難な収益化を図るという考え方ではなく,簡単に収益化出来そうなものを造るという考え方に陥いっている。自然,金さえ稼げれば成果物の質などどうでもいい,ということになる。
度を越した SEO(検索エンジン最適化)についても,本来は「良い献典のための SEO」が,この手の企業の中で「良い SEO のための(低コストな)献典」に逆転していても不思議なことはない。むしろ,それ以外のどこに拠り所があるのかという感じだ。
こういう状況を投資環境の悪さのせいにする言説がよくあるが,それは恐らく原因と結果の取り違えだ。起業家とはいわば「冒険者」だ。困難や逆境に立ち向かう力が無く,「金をくれれば出来るのに」と言って何もしない者に誰が夢を託せるだろうか。壮大な夢をしっかり描いて,それに向けた徹底的な現実主義者になること。それだけのことが日本人には全く出来ていない。それが国内では大手とされるインターネット企業で示されてしまったことこそ『WELQ』問題の哀しさなのだと思う。
「面白法人」と称するカヤックという IT 企業がある。鎌倉に本拠を置くウェブ系企業だが,もともとサイコロで給与を決めるなど一風変わった社内制度が静かに注目されていたところ,2014年末に東証マザーズへの上場を果したことで話題を集め,日本国内の中堅 IT 企業としては比較的高い知名度を得ている。
鎌倉に縁があることもあって,私はかなり前からこの企業のことを知っていた。確かにちょっと個性的な企業だとは思っていたものの,大きくなるような企業ではないだろうと考えていた。それというのも,「面白さ」というのは大々的にすればするほど冷めてしまうものだからだ。流石にそれは経営者も理解しているだろうと思っていたのだが,どうやら意外に拡大志向を持った企業らしい。
案の定,話題になるとともにその「面白さ」に対して批判的な意見もよく聞かれるようになった。面白いといっても,要はちょっと奇を衒った感じの小ネタ的な製品が多く,センスも中途半端なので,「面白」という自称に完全に負けてしまっているのだ。その上,業績が芳しくなく,明るそうな社内にも暗部があるようで,ある人はその体質を「面白ハラスメント」と揶揄している。カヤックの失敗(と私はあえて言うが)は,ある種の IT 企業の典型的な勘違いなのだと思う。
「対照」(コントラスト)は演出における基本中の基本で,例えば笑いなら日本の芸人がいう「緊張の緩和」がそれにあたる。これはカントに由来し,笑いを緊張(かたさ)と緩和(ゆるさ)の落差で説明する有力な理論だ。要するに,面白さとは「かたさ」と「ゆるさ」のメリハリに由来するということなのだが,しばしば「ゆるいだけ」が面白さだと勘違いされる。
カヤックの他にも,例えばニコニコ動画のドワンゴにもこの勘違いがよくみられる。ニコニコ動画は広告などでも若者言葉やゆるい表現,ネットスラングの類をわざとらしく多用してくるのだが,これが驚くほど面白くない。つまり,緊張の緩和が全く機能していない。そこはあえて控え目にした方が肝心の<ruby><rb>用者</rb><rp>(</rp><rt>ユーザー</rt><rp>)</rp></ruby>文化が引き立つのだが,運営側が面白さを殺してしまっている最悪の例だ。
もっとカヤックに近いところでいうと,LIG も個性的なウェブ制作会社として知られているが,いまのところ LIG の方がこの点は上手くやっている印象がある。少なくとも,「面白法人」などと自称していないし,一見普通のウェブ制作会社だと思っているとちょこちょこ,それもさりげなく小ネタを挟んでくるので,最初はちょっと笑ってしまう。もちろん,この辺のバランスは難しいので,もっと調子に乗り始めるとどうなるかは分からない。
カヤックのマズさは,単に面白さのバランス感覚に欠けているということに留まらない。「面白」を冠することの恐さが分かっていないように見える。一流の芸人ですら,「面白い」という前振りを恐れるのに,特別面白くない人達が「面白」を看板にしてやっていこう,という神経は凄すぎる。そこまで考えてやっと別の意味で面白く思えてくる,というのが狙いなら大したものだ。
そもそも,日本の IT 業界は暗黒時代真っ只中なわけで,真に必要とされているのは,ちょっと奇を衒ったようなことをする企業ではなく,真正面から諸課題に取り組んでくれる企業だ。そういうド真面目な設定の企業が,ところどころでユーモアセンスを発揮してくれるのが喜劇的にも理想なのだが……。
gumi という<ruby><rb>遊画</rb><rp>(</rp><rt>ゲーム</rt><rp>)</rp></ruby>会社の株価が,東証1部への上場直後に暴落している。業績見通しの極端な悪化が直接の原因だが,「上場詐欺か」と言われるほど異様な状況だ。
その懸念を後押ししているのが,代表の國光氏がいわゆる「ビッグマウス」で,これまで各<ruby><rb>鳴体</rb><rp>(</rp><rt>メディア</rt><rp>)</rp></ruby>で大胆な発言を繰り返してきたという点だ。細かい部分はともかく,内容以上に見かけを派手にして会社を大きくしていく,という手法は旧ライブドアを彷彿させる。旧ライブドアが日本の IT 企業としては少なくとも標準以上の技術力を持っていたのと同じで,gumi も遊画の質に関して評判は悪くない。ただ,経営者が身の程を弁えることを知らず,実力のまったく及ばない問題を抱え込んでしまうという共通点がある。
私の場合,そもそも日本は「IT 暗黒時代」の真っ只中にいるという認識でほとんど期待していないし,この会社に関しても食指は微動だにしなかったので完全に他人事だ。だから感想としては「またか」ぐらいしかない。分かっていたこととはいえ,業界も投資家も,ライブドア事件以来まったく進歩がない。
株価について確実なことは何も言えないし,gumi という会社が無価値だとも言えない。それなりの実績はあるだろうし,大口叩きも志の高さを表わしているのかもしれない。ただ,いずれにせよ目標に中身がまったくついてきていない,というだけのことだ。「世界一」のためにどれだけの蓄積が必要か,ということを國光氏も関係者も,投資家も<ruby><rb>鳴体</rb><rp>(</rp><rt>メディア</rt><rp>)</rp></ruby>も知らなすぎるのだと思う。一言でいえばリテラシーの問題で,本心から世界一を目指しているのなら現状は「ごっこ遊び」みたいな水準だという認識が必要だろう。
それでもこれほどの大金が動くのは,やはり日本人が全体的に大人しいせいで,少し派手なことが言える人に引っぱられてしまうのだと思う。「時価総額8兆円」程度でビッグマウス気取りというのもスケールの小さい話だが,それが日本の現状だ。
強いて好意的に見れば,本当に志の高い企業だからこそ,冒険(赤字)を恐れていないのかもしれない。それはつまり外部の投資家から見れば大博打だということになる。起業家は無条件に自分を信じられても,投資家は信じるべき人間しか信じないので,資金が引き上げられていき,(本人の感覚では)それに足を引っぱられ悪循環に陥り倒産,元社長が場末で「日本ではベンチャーが育たない」とかボヤいている姿がどうしても目に浮かんでしまうが,たまには大逆転で感動させてほしい。
最近,ハチ型開発手法の確立を模索しつつ,受託開発(アリ型開発)・独自開発(クモ型開発)の両視点から日本の IT 業界について考えることが多い。
受託開発の世界でむかしから問題とされてきた IT ゼネコンや多重下請けも,独自開発の世界での外国(主にアメリカ)追従も,突き詰めれば「寄らば大樹の陰」という共通の問題が浮かび上がってくる。私は,外国企業が開発したプラットフォーム上で,刹那的なアプリケーション開発に甘んじている独自開発系の日本企業を「小作工」などと批判してきたが,考えてみれば大手 SI にぶら下がっている受託開発系企業も同類だ。どちらも他人の畑から出ようとしない。
こういう時,受託開発の世界では「下請けに甘んじている企業は営業努力が足りない」といった批判に繋がることも多いのだが,そういう企業は何も営業をサボっているわけではない。みんな必死で精一杯だ。営業にとって最強の武器は商品,つまり,IT 企業にとっては技術だ。残念ながら多くの日本企業には,IT 企業としての技術がないのだ。受託開発だろうと独自開発だろうと,問題はこれに尽きる。特に,商品を売って終わりではない受託開発において,無茶な売込みは企業にとってリスクが高い。成績を上げるため顧客に都合の良い話ばかりする営業とそれに振り回され炎上する開発現場という構図は大昔から変わらない。限度を超えればプロジェクトの崩壊,訴訟問題だ。
私は,「受託改革」に取り組んでいる企業に注目し情報収集しているが,こういう企業はまず秀でた技術を持っている。下請けから抜け出したい中小企業が狙うべきなのは何よりも中小企業向け市場だが,この市場を開拓するにも相応のノウハウと核となる技術が要るのだ。これを築くのがまず難しい。有望な「受託改革」企業は,日本には10社もないかもしれない。
さて,日本の IT 企業に技術がないというのは散々言われてきたことだが,この「技術」という言葉についてよく考えてみた人は少ないのではないだろうか。的を射た考察をあまり読んだことがない。私はさっき「情報技術は思考の技術」と描いたが,これなら,なぜ日本人が IT に不向きなのか,伝統・思想・経済構造・教育制度といったあらゆる面から整合的に説明することが出来るだろう。
私がドワンゴ問題を警戒するのは,率直に言って,いわゆる「ライブドア事件」の再来を恐れているからだ。ドワンゴと旧ライブドアは,見方によってはとても似ている。
ライブドア事件は,良識ある日本人にとっておぞましい事件だった。日本の IT 業界だけの恥ではない。政財界,メディア,そして大衆までもが,上から下まで,志の低さ,信念の無さ,眼識の無さ,日和見主義をさらしてしまった。問題が発覚した後で,世間は手の平を返したようにライブドア叩きを始めたが,それよりも前に誰も力ある批判を行えず,メディアはただただ長い物に巻かれるだけだった。
ドワンゴも旧ライブドアも,元々はありふれた小さな IT 企業だ。特に爆発的なアイデアや核心的な競争力を持っていたわけでもなく,地道で泥臭い仕事を優秀にこなす企業だった。この手の企業は,成長に限界を感じると信念なくあちこち手を拡げはじめて,抱えきれない問題を抱えてしまうことがある。政財界と絡みだせばもう取り返しがつかない。この点で,ドワンゴと旧ライブドアは似ているのだ。最近のドワンゴのメディア露出を見ていると,どうしても堀江貴文氏がテレビではしゃいでいた頃を思い出してしまう。
あまりにも複雑な利害関係や怪しい問題を抱えていて,戦争の起爆点になりかねない地域を「火薬庫」と表現することがあるが,私に言わせればドワンゴ周辺は「IT 業界の火薬庫」だ。「ドワンゴ問題」が「ドワンゴ事件」に変わる前に,私は出来るかぎり警鐘を鳴らしていきたいと思っている。
情報通信産業は,高度な情報技術(IT)の開発によって,それまでの産業とは比較にならない規模の社会的影響力と経済的成功を生み出す。だからこそ,21世紀の産業における「革命」だと言われてきた。その核心にあるのは技術だ。新技術の開発こそ情報通信産業の可能性を引き出す唯一の手段といっていい。
ところが,日本の IT 業界,あるいは日本の行政がこの点を認識しているのかどうか,よく分からなくなることが多い。単純な話,技術を軽視し過ぎている。面白いことに日本の IT 企業は,ある程度成長すると技術開発をなおざりにして金融や政治,メディア活動,イベント興業,といったことに手を出しはじめる。なぜか,ということはあまり問題ではない。理由は明らだ。彼らは技術的なアイデアを持っていないのだ。
例えば,学校秀才が東大や京大などを出るか中退して起業し,システムの受託開発などで成果をあげる。この時点で問われるのは,忍耐強く,正確に,素早く,という受験勉強にも共通する事務処理能力だ。だから,「優秀なソフトウェア開発企業」として評判を積み上げていくことが出来る。しかし,価値あるオリジナルの権利を握っていなければ頂点を取れないのがソフトウェアの世界だ。究極的な競争で要求されるのはただの優秀さではない。100万人の秀才を集めても,思いもよらない発想をする1人の天才に勝てないことがある。優秀なだけの企業は,まもなく成長の鈍化に悩まされる。すでに上場していたりすると,株主の期待や世間の評判が重圧になってくる。こうして始まるのがいわば「悪しき多角化」,技術からの逃避だ。
やがて,技術をお飾り程度にした「IT 企業」が出来上がる。彼らがあまり「情報技術」という言葉を使わず,やたら「IT」などというフワフワした言葉を使いたがるのは,技術に背を向けていることからくる引け目かもしれない。いずれにせよ,彼ら IT 企業は,例えば金融業であったりイベント興業であったり,コンテンツ販売業であったり,そういった古典的でもう枯れている産業に,華々しい情報通信産業の皮を被せただけのような奇怪な産業を作り出す。当然,アメリカ合衆国で成功している真なる「情報技術企業」のように凄まじい収益を生み出すことも出来ず,経営実態は極めて不安定で高リスクであるか,そうでなければ容易に既得権益と癒着し,しがらみと利権だらけの企業になってしまう。つまるところ,全ては技術と向き合えない弱さが招いていることなのだ。
そして彼らはこう言い出す。「技術が全てではない」。最初は顧客や株主向けの建前だったかもしれないが,それもやがて自己暗示の様相を呈してくる。「すっぱい葡萄」というやつだ。次に「コンテンツが大事だ」などと言い出す。いつも安易な逃げ道を探しているだけの企業が生み出すコンテンツなんて陳腐なものだ。もうそろそろ,誰かがはっきり言ってやらなければいけないのではないか。「技術が全てだ,目を醒ませ」と。